大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

浦和地方裁判所 昭和53年(ワ)701号 判決

原告

羽鳥精一

右訴訟代理人

時友公孝

被告

中川路工業株式会社

右代表者

中川路徹

被告

岡田鶴松

右両名訴訟代理人

内野稠

被告

東都観光バス株式会社

右代表者

宮本市郎

右訴訟代理人

小林澄男

萬羽了

森川正治

被告

医療法人社団厚生会

右代表者理事

田平礼三

右訴訟代理人

丸山正次

福島武

主文

1  被告中川路工業株式会社、被告岡田鶴松及び被告東都観光バス株式会社は原告に対し、各自金一、〇〇四万五、四七一円及び内金九三四万五、四七一円に対する昭和五三年九月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告の被告中川路工業株式会社、同岡田鶴松、同東都観光バス株式会社に対するその余の請求及び被告医療法人社団厚生会に対する請求を棄即する。

3  訴訟費用中、原告と被告中川路工業株式会社、同岡田鶴松及び同東都観光バス株式会社との間に生じた分はこれを一〇分し、その一を原告の、その余を右被告らの、原告と被告医療法人社団厚生会との間に生じた分は原告の各負担とする。

4  この判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、「被告らは原告に対し、各自金一、一〇四万九、二七一円及び内金一、〇三四万九、二七一円に対する昭和五三年九月一四日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として次のとおり述べた。〈以下、事実省略〉

理由

一原告主張の請求原因第一項の事実(交通事故)は、〈証拠〉によつて認められる(但し、原告主張の本件交通事故の発生及び原告の負傷の事実については、原告と被告中川路工業、同岡田鶴松及び東都観光間との間では、負傷の程度を除いて争いがない。)。

二次に、同第二項の事実(診療事故)は、〈証拠〉によつて、これを認めることができる(但し、原告と被告厚生会との間では右事実について争いがない。)。

三また、同第三項(一)の事実(被告中川路工業の責任)については、原告と同被告との間で争いがない。

四ところで、同第三項(二)の事実(被告岡田鶴松の責任)について、同被告は本件普通貨物自動車の所有名義人であることは認めているものの、それは被告中川路工業が同自動車を購入する際に単に名義を貸与したにすぎないから実質的な所有者ではなく、したがつて、被告岡田は運行供用者としての責任を負わないと主張する。しかしながら、〈証拠〉によれば、本件普通貨物自動車は被告中川路工業の取締役である被告岡田の所有に属するものであつて、同被告がこれを被告中川路工業に使用させていたものであることが認められ、右認定に反する証拠はない。そして、被告岡田の主張する名義貸与の事実については、何らの立証がない。

そうだとすれば、被告岡田は自賠法三条所定の運行供用者と認めるのが相当である。

五さらに、被告東都観光の事故責任について判断する。

同被告が旅客運送を業とするタクシー会社であつて、本件タクシーを運行の用に供していたこと、奈良岡が本件交通事故当時、同被告の被用者であつたことについては、当事者間に争いがないから、同被告は、奈良岡が運転するタクシーに乗車して本件交通事故により受傷した原告に対しては、自賠法三条に基づき、同条所定の免責事由が認められるのでなければ、運行供用者としての損害賠償責任を負わねばならない。

そこで同被告の免責の抗弁について検討する。

1  同被告は、本件事故は信号を無視して交差点に本件普通貨物自動車を侵入させた坂口運転手の一方的過失によつて発生したものであるから、信号を守つてタクシーを直進させた奈良岡には交差点における減速及び左右安全確認義務違反はないと主張する。

なるほど〈証拠〉を総合すれば奈良岡は、昭和五〇年一二月一三日午前零時三五分ころ普通乗用自動車に原告を旅客として乗車させて運転し、最高制限速度時速四〇キロメートルを越える時速七〇ないし七五キロメートルに加速して本町方面からオートレース場方面に向いそのまま直進を続け本件交差点に差しかかつたところ、対面の信号機の表示が青色であつたので安全に通過できると考えてタクシーを直進させたこと、しかるに折から坂口の運転する普通貨物自動車が本件交差点の左方道路を対面信号が赤色であるのにこれを無視して進路前方を西川口駅方面から鳩ケ谷方面へ時速四〇キロメートルで通過しようとしたため、奈良岡は本件交差点直前(衝突地点まで僅か一五メートル)で初めて気付き直ちに急制動したが及ばず、坂口車の前部がタクシーの左側面に衝突し、本件交通事故が生じたことが認められるから、本件交通事故の発生について坂口の側に赤信号無視の重大な過失があることは明らかである。信号機による交通整理が行われている交差点に青信号に従つて直進進入した車輛の運転手である奈良岡としては、特別の事情がなければ、左右道路から赤信号を無視して右交差点に進入してくる車両がないものとの期待のもとに運転して然るべきである。しかし、このようないわゆる信頼の原則も絶対的なものではなく、青信号に従つて交差点を通過する車輛の運転手においても、制限速度を遵守して安全に走行すべき注意義務を負うのは当然であり、信頼の原則を根拠に右の注意義務を免れるものではない。しかるに、奈良岡は、タクシーの運転手として、乗客を安全に運送する業務に従事中であるにもかかわらず、最高速度が四〇キロメートルに制限されていた道路上を三〇ないし三五キロメートルも超過した速度で走行中に本件交通事故を発生させたのであるから、同運転手が最高制限速度もしくは社会通念上許容しうる最高制限速度に準ずる速度でタクシーを運転していても、本件交通事故による原告の受傷を回避することができなかつたという特別の事情があるのでなければ、安全運転上の注意義務違反の過失を免れないものというべきである。

2  同被告は奈良岡が適切が速度でタクシーを運転していたとしても、本件事故の発生を避けることができなかつたとし、その論拠として、坂口車を発見し得た地点から衝突点までの距離は約一五メートルであり、奈良岡が衝突の危険を覚知できてから停車することができるまでの距離は、最高制限速度で計算すると、17.8メートルとなるから、結局衝突は回避しえなかつたと主張する。しかし、同被告の主張するように、奈良岡の運転するタクシーが仮に最高制限速度で走行した場合でも、坂口車との衝突を避けえなかつたとしても、もし奈良岡が時速七〇キロメートルという速度を出さずに、時速四〇キロメートルの最高制限速度によつてタクシーを走行させていたとすれば、前記認定の本件交通事故発生の態様に徴すると、坂口車の前部がタクシーの左側面に衝突するという本件のような事故は起らず、タクシーの前部が本件普通貨物自動車の右側面に衝突したものと推認され、かつ空走距離を17.8メートル、衝突地点までの距離を一五メートルとみても、両者の差は2.8メートルであるから、衝突によつてタクシーがうけるであろう衝撃の程度もそれほど大きいとは考え難いのであり、したがつてタクシーが時速四〇キロメートルで走行された場合には、前記認定のような左上腕骨折、左橈骨神経麻痺という重傷を原告が負うということにはならなかつたと推測されるのである。してみれば、奈良岡の運転するタクシーの最高制限速度違反と原告の受傷との間に因果関係がないとはいえないから、同被告の右主張も採用することができない。

右の認定判断によれば、被告東都観光は自賠法三条に基づき、運行供用者としての責任を免れえないというべきである。

六進んで、被告厚生会の責任について判断する。

1  原告が同被告病院において左上腕骨骨折の治療をうけ、昭和五〇年一二月二三日黒沢医師によるギプスの固定治療をうけたが、その後骨折部が癒合しないため一年九か月後の昭和五二年九月二八日腰骨の移植による再手術が黒沢医師によつてなされたが、その際の輸血が原因で輸血性肝炎に罹患したことは、原告と同被告との間で争いがない。

2  そこで、まず黒沢医師の原告に対する診療経過について調べてみる。

前項の認定事実と〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  昭和五〇年一二月一三日午前零時四五分原告が同被告病院に入院し、当直医の応急的治療をうけ、当初の診断は上腕骨骨折及び顔面外傷であつたが、黒沢医師が同日午前中に診察した。診断は、左上腕骨骨折及び橈骨神経麻痺ということであつた。しかも、骨折は髄腔まで達し、骨片が大一箇、小二箇位があることがわかり、激痛と腫脹がこれに伴つた。

(二)  そこで、右激痛を軽減するため、同医師は同年一二月一四日牽引治療を開始し、腫脹の治まるまで手術を待つことにした。

(三)  同年一二月二三日同医師は骨折部分を元に戻すための観血的整復固定術を施行し、金属プレート固定及びギプス固定を行つた。その後ギプスの巻き替えを行いながら、橈骨神経麻痺の治療及び患部の化膿防止の治療を続けた。

(四)  手術後三カ月を過ぎても仮骨ができていないので、昭和五一年三月三一日ギプス蓋あけを行い、仮骨の形成をはやめるべく左上腕の自動運動を開始した。もつとも、その後三か月間は夜間はギプス固定を行つた。

(五)  同年七月二日仮骨が少し形成されたことが判明したのでギプスの全除去を行つた。なお原告は手術後三か月しても、時々患部の痛みを訴えていた。しかし、右の痛みは手術後通常みられるもので、特に異常とはみられなかつた。

(六)  また、同月九日にはマッサージを開始した。原告の場合、仮骨形成の増加の速度が遅かつたが、その好転を期待して経過を見守つた。

(七)  しかし、入院していても、仮骨の形成が思うように進まないので、家族の希望もあり通院に切り替えて治療を続けることとし、同年九月三〇日退院した。退院後は毎日のように通院して、仮骨形成促進のための理学療法を受け、患肢使用、矯正マッサージが行われた。退院後、原告は患部の痛みをしばしば訴えるが、痛みの程度は強くないので翌昭和五二年一月頃から自動運動を積極的に行うよう指示された。

(八)  その頃から原告及びその家族は、治癒見込みがたたないので再手術を希望した。しかし、黒沢医師は、仮骨形成の度合が相当期間経過後も十分でない場合には、再手術を考慮したが、再手術は骨折部の癒合しない骨を削り、そこに腰骨の一部を削りとつて移植する必要があり、この手術には、多量の出血と患者の苦痛を伴うので、できる限り避けて、理学療法により血液の循環を高めて骨折部の骨の癒合を慎重に待つこととし、原告及びその家族にその旨を説明して、その了解のもとに治療を続けた。

(九)  原告は同医師の指示に従つて同年四月頃には腕立て伏せを行うまでに運動療法を行つたが、同年五月頃から仮骨形成が進んでいないことが同年九月一七日のレントゲン撮影の結果判明したので、原告の承諾のもとに再手術することとなり、原告は、昭和五二年九月二六日、再入院した。

(一〇)  同年同月二八日、黒沢医師により骨移植術による再手術が施行された。出血が一、〇四〇ミリリットルであつたので、一、〇〇〇ミリリットルの保存血液による輸血がなされた。再手術後の経過は、一週間位激痛を伴つたが総じて順調であつた。

(一一)  しかし、同年一一月四日、再手術後約一か月半にして、輸血性肝炎が発病した。

(一二)  昭和五三年二月一三日ギプスが全て除去された。

(一三)  しかし、被告病院から、肝炎慢性化の傾向を指摘され、今後さらに長期に入院治療が必要であることから、原告は自ら希望して昭和五三年五月二七日、川口市民病院へ転医のため退院し、同月三一日に川口市民病院に入院し、治療を継続した。

大要以上のように認められ〈る。〉

3  右認定の事実に基づいて、黒沢医師の診療上の過誤があつたかどうかについて検討する。

(一)  原告は、原告の受傷状態からみて第一回目の手術の際に骨移植の手術をすべきであつたのに、骨折部に骨片を付着させる手術に止つたことをもつて医療上不適切な処置であつたと主張する。しかし、鑑定人中村耕三の鑑定の結果によれば、本件のような受傷状態の場合には、通常三、四日から二、三週間で医師が全身状態を把握し、かつ患部腫脹の改善をまつて手術するのが妥当であり、手術までの期間牽引を行うことは患部の安静の意味で妥当な処置といえること、その手術方法としては、金属プレート固定、ギプス固定の方法は広く用いられているもので、本件骨折に対しては当初より骨移植術を併用しなければならない理由はないことが認められ〈る。〉したがつて、黒沢医師には、原告主張の診療上の過誤があるとはいえない。

(二)  次に、原告は、黒沢医師の第一回目の手術後の処置が不適切であり、かつ再手術を遅らせたため、骨折部分の骨の癒合を遅らせたと主張する。

なるほど、第一回目の手術後、原告の骨折部分の骨の癒合は、仮骨の形成が思うように進展せず、また、手術後の疼痛も相当長期にわたり続いたこと、原告に再手術の希望があつたが、黒沢医師は再手術することに慎重で昭和五二年九月二八日までの間経過観察を継続し、その間自動運動、マッサージ、患肢使用の治療が行われたのに所期の治療効果がそれほど挙らず、結局再手術をせざるを得なかつたことは前記のとおりである。そして、前記鑑定の結果によれば、第一回目の手術後約三か月を経過した昭和五一年三月三一日のレントゲン線所見で、明らかな骨癒合機転が認められないことから、この時点で骨の癒合が遷延していると判断されるところである。しかし、右鑑定の結果によれば、骨癒合の遷延に対して手術的治療が考慮される時期は、遷延治癒と判断される時期と偽関節が完成した時期であつて、遷延治癒と判断される時期から偽関節完成までの期間においては、手術的治療は相対的な適応時期であると医学上考えられているものであるところ、右三月末日の時点ではいまだ偽関節の形成が完成されていないから再手術以外に方法がないということはできないし、また、昭和五一年八月九日以降のレントゲン線所見によれば、骨折面での骨硬化像があり、偽関節形成への移行の疑いがもたれるものの、全経過中偽関節が形成されたとの事実は認められず、また、同年五月二一日のレントゲン線正面像では第一次性仮骨の形成が認められ、昭和五二年八月一二日のレントゲン線側面像では第二次性仮骨の形成があつたと判断されること等からすれば、黒沢医師が保存的治療のままで骨癒合の可能性を追求したことについて、診療上の過誤があつたことは認めることができない。もつとも、右鑑定の結果の指摘するところによれば、一般的には遷延治癒状態において、保存的治療を選択しうる余地があつても、当初の治療開始から六か月ないし一年の間に手術的治療に切り替えることが多いことは事実であるが、これは、一年以上経過した場合、治療期間が長期にわたることになるための社会生活上の問題を考慮してのことであつて、医学的に骨癒合に悪影響を与えるためではないと考えられる。のみならず、黒沢証人の証言及び弁論の全趣旨によれば、同証人は昭和二六年以来整形外科医として多年の経験を有し、現在被告病院の整形外科に勤務する傍、東京医科歯科大学整形外科の講師を兼務している経験豊富な医師であることが認められるのであつて、かような医師が、前記認定のとおり、原告の再手術を慎重に待つて、その結果、通常の場合よりも若干経過観察期間が長くなり、結局再手術せざるを得なくなつたとしても、これをもつて直ちに医療過誤と目するのは相当ではない。また、右鑑定の結果によれば、遷延治癒と判断された場合の処置については、絶対的な方式が確立されているわけではないが、骨癒合の初期を除いては、マッサージ、患肢の運動は骨癒合を促進するものとしての一つの方法であること、本件ではプレートやスクリューのゆがみもしくはゆるみが認められず、かつ骨片間の異常可能性は認められないのであるから、骨折部の固定性の不良ということは考えられないのであつて、患肢の運動を行うことは保存的治療として不適切とはいえないことが認められる。そして、原告の病状の経過にしたがつて、前記認定のとおり昭和五一年三月三一日から開始された左上腕の自動運動、同年七月九日からのマッサージ及び手術後約一年を経過したころからの相当積極的な患肢使用、矯正マッサージが行われたことについては、原告に相当の苦痛が伴つたことから、患者として不満であつたことは察せられるが、それが医学上不適切な処置であつたとは認め難い。

(三)  次に、原告は再手術の際の輸血が不適切であつたと主張する。

黒沢医師が行つた再手術の際、一、〇〇〇ミリリットルの日赤血液センター保存血を輸血に使用した結果、原告が血清肝炎に罹患したことは前記のとおりである。しかし、前記鑑定の結果によれば、一般に新鮮血輸血がなされるのは、例えば、三、〇〇〇ミリリットル程度の多量の出血を伴い、血液中の血小板や凝固因子の補充を必要とする場合であり、しかも新鮮血においてはその供血が梅毒血清反応陰性期のものであつた場合に、かえつて輸血梅毒感染の危険性が増大するのに対し、保存血においては、B型肝炎のスクリーニングが行われてから、輸血後肝炎の発性が激減していること、しかし、非A、非B型肝炎については、本件手術当時有効な予防法がないことから、輸血後肝炎(現在の発生率は一〇ないし二〇パーセントといわれている。)を予見することは不可能であることが認められる。したがつて、黒沢医師が本件再手術にあたつて日赤血液センターの保存血一、〇〇〇ミリリットルを使用したことについては、医学上不適切な処置とはいえないと認めるのが相当である。

4  以上によれば、黒沢医師には、原告に対する診療について何らの過失がなかつたというほかはないから、黒沢医師の使用者である被告厚生会は本件事故について何らの責任を負わないというべきである。

八そこで、次に原告主張の損害について被告中川路工業、同岡田鶴松、同東都観光との関係において判断する(なお、被告中川路工業及び同岡田は、本件診療事故については予見不可能であり、坂口の過失行為との間に因果関係はないと主張するが、本件診療事故について、被告厚生会に責任がないこと前記のとおりであるうえ、原告の受傷の程度及びその治療経過に関する前記認定の事実に徴すれば、後記損害は予見不可能であるとか、または因果関係がないとは認められないから、右主張は採用することができない。)。〈以下、省略〉

(糟谷忠男 小松一雄 池田徳博)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例